神の願いは、人が命の木から食べること

 聖書は、初めから終わりまで何について語っているのでしょうか?聖書を知っている人はみな、聖書の中には一つの原則があることを認めます。あることが聖書の最初の記録にどのように語られているかということが、その後の発展の中でそのことの不変の意味になります。よって、もし神と人の正しい関係を知りたいなら、神が人を創造した後、神は人に何を望んだかを知らなければなりません。神はアダムを命の木の前に置き、園にある木の実を自由に食べて良いと言われました。神が最初に人に望んだことは、食べることでした!よって、わたしたちは、聖書が食べることに関する書であると知ることができます。何を食べるのですか?神を食べます!主を食べるのです!

 聖書は何について語っています か?食べることです!なぜイエスは来られたのですか?彼が来られたのは、わたしたちが彼を食べるためでした。

 聖書は過越の祭りについて、小羊の血と肉に関 して述べています。人は罪を犯しました。ですから、人は血を必要とします。しかし、エデンの園には命の木はありましたが、血はありませんでした。人が罪を 犯したので、血が必要になりました。しかし、小羊には血だけでなく肉もあります。血は墮落に起因するわたしたちの罪を取り扱います。肉は命の木からの命を 供給します。従って、それは血だけではなく、肉を伴った血です。

 出エジプト記第十二章を読む時、あなたはこの二つのものを見ることができま す。それは血と肉です。血は家の外に振りかけられたので、家は血の下にありました。イスラエルの子たちは、血のおおいの下で何をしたのでしょうか?彼らは 食べていました。

 多くのクリスチャンは、過越の小羊について語る時、はっきりと血について語ります。しかし、過越の小羊の焦点は、血ではなく肉にあります。 血は肉のためです。血を振りかけることは、人が肉を食べるためです。血は贖いのためです。そして、贖いは人がキリストを命として享受することに連れ戻すことです。