事実、信仰、経験

「事実」―クリスチャンはキリストとの結合を通して、キリストの働きと達成されたことすべてを所有する

わたしたちは、主イエスが、言が肉体となられた方であることを知っています。彼は、すべての神聖な美徳の完成であり、すべての完全さの総合計です。彼の生活は神の生活です。なぜなら、彼は神ご自身であるからです。キリストは十字架上で、救いを達成されました。主イエスを主また救い主として心から受け入れるすべての人を、彼らが信じる瞬間に、神は主イエスを受け入れたように受け入れてくださいます。その時、主イエスのすべての神聖な美徳と達成されたことが、信者たちにやってきます。神の目には、また神の御前では、彼らは主イエスと同じです。神はキリストを見るように、すべてのクリスチャンを見られます。クリスチャンはキリストとの結合を通して、キリストの働きと達成されたことすべてを所有します。これが、クリスチャンが神によって与えられている「事実」です。この事実は、クリスチャンのために、キリストによって達成されました。この事実とは、信者と主イエスとの結合を通して、キリストに属するあらゆることが、今や彼の信者たちにも属するということです。これは、ただ神によって達成された事実であり、信者たち自身は、その達成には何の功績もありません。

聖書は、この事実をとても明確に指摘します。へブル人への手紙の著者は、特に簡単な例証を用いて、神がわたしたちのために達成された事実を指摘します。第9章15節から17節では、主イエスがわたしたちのために達成されたことが、人の遺言によって例証されています。遺言とは、その遺言を受け取る人に対する「相続」の約束です。しかし、遺言をした人が死ぬ前は、その遺言は有効ではありません。いったん人が死ぬなら、その遺言の受取人は、その遺言をした人によって残された相続財産を、受け取ることができます。主イエスは遺言をされた方です。彼は死なれました。このゆえに、彼が約束されたことはすべて、直ちにわたしたちの名の下に来ます。 これが、わたしたちが彼から受けた事実です。わたしたちはその相続財産を一度ですべてを所有したり、その相続財産から利益や生計の糧を享受したりしないかもしれませんが、その相続財産は確かにわたしたちのものです。それはわたしたちに属し、すでにわたしたちの名の下にあります。これは動かし難い事実です。相続財産を持つことは一つのことですが、その相続財産を享受することは別なことです。その相続財産を所有していることは「事実」であり、その相続財産を享受することは「経験」です。わたしたちは、相続財産を所有しているという事実を持っていますが、それはわたしたち自身のゆえではなく、遺言を残してくださった方のゆえです。事実を持つことが、先にやってきます。享受がその後に続きます。

この例証の教えはとても単純です。主イエスは死なれて、わたしたちに彼の義、神聖な美徳、完全さ、勝利、麗しさなどすべてを与えてくださいました。これらによってわたしたちは、神の御前で彼と同じようになり、神は主を受け入れたのと同じようにわたしたちを受け入れてくださいます。これが、彼がわたしたちに与えてくださったことです。これらの事柄は、わたしたちがクリスチャンとなった瞬間からの事実です。事実に関する限り、わたしたちはすでに主イエスと同じように完全なのです。しかし、経験に関する限り、わたしたちはこのようではないかもしれません。この「事実」の意味は、神が主イエスを通してわたしたちに与え、わたしたちのために達成してくださった恵みにほかなりません。この恵みは、わたしたちと神の御子との結合を通して、わたしたちに与えられました。わたしたちは、相続財産を相続するという事実を持ちながら、その相続財産を享受する経験を持たないことがあり得ます。事実と経験との間には、大きな相違があります。多くの信者たちは、事実においてはとても豊かです。なぜなら、神のものであるすべてが彼らのものであるからです。しかしながら、経験においては、彼らは最も貧しい者たちです。 なぜなら、彼らはその豊富を実際的に用い、享受することをしないからです。ルカによる福音書第15章における兄は、この状態のよい例証です。事実に関する限り、彼は「いつもわたしと一緒にいるし、わたしのものは全部、あなたのもの」(31節)である子供でした。しかし、経験に関する限り、彼は、「友人と楽しむために、やぎ一匹」(29節)も持ったことがありませんでした。彼は裕福な人の息子でした。これは彼の地位、事実でした。それにもかかわらず、彼がやぎ一匹さえも享受していないことがあり得たのです。これは彼の状態、経験でした。

クリスチャンは聖書を通して高貴な地位を理解し、神の光の下で、自分の歩みが召しの恵みにふさわしいかどうか吟味すべき

わたしたちは、事実と経験との間の区別について、とてもはっきりとしているべきです。これら二つの事柄は、二つの異なる面です。最初のものは、神がわたしたちのために達成されたものであり、神がわたしたちに与えてくださった地位です。二つ目のものは、わたしたちが実行するものであり、神がわたしたちに与えてくださったものを、わたしたちが享受することです。現在、信者たちは極端に走る傾向があります。ある人たち(実際は大多数ですが)は、彼らが主イエスにあって持っている豊かさを知りません。彼らは、主イエスが達成されたことすべてが、すでに自分のものであることを知りません。彼らは恵みを得ようと、計画し、企てます。彼らは自分自身の力によってあらゆる種類の義を成し遂げ、神の要求に応じ、新しい命の性質を満足させようとします。別の人たち(かなり多数います)は、神の恵みをすべて十分に理解していると思っています。彼らは、主イエスはすでに自分を、比ぶべくもない地位に引き上げてくださったと思っています。彼らはすでに満足してしまい、主イエスから受けた恵みを経験的に実行に移すことを追い求めません。両方とも間違っています。経験に注意を払い、事実を忘れる人たちは、律法によって縛られています。事実に注意を払い、経験を軽んじる人たちは、恵みを気ままにすることの口実とします。一方で、クリスチャンは聖書を通して、主イエスにある自分の高貴な地位を理解すべきです。他方、彼は神の光の下で、自分の歩みがその召しの恵みにふさわしいかどうか吟味すべきです。

神はわたしたちを、最も高貴な地位に置かれました。わたしたちと主イエスとの結合を通して、主の達成されたことと勝利のすべてはわたしたちのものです。これが、事実におけるわたしたちの地位です。今、問題なのは、どうすればわたしたちが、主イエスの達成されたことと勝利のすべてを経験することができるかということです。事実と経験との間に、すなわち事実が経験となる前に、神の達成されたことが人の実行となる前に、まだ信仰の段階があります。

「信仰」―神が主イエスにあってわたしたちのために備えられたものを、信仰によって「現金化」する

この信仰の段階は、相続財産を「活用」または「管理」することにほかなりません。主はわたしたちに遺言を残されました。彼は死なれ、今やその遺言は有効となっています。わたしたちはもはや、無関心な、関係のない態度を取るべきではありません。そうではなく、わたしたちは立ち上がって、受けた相続財産を「活用」すべきです。それはわたしたちが、その相続財産の祝福を享受し、経験することができるようになるためです。わたしたちはすでに神の子供たちです。神が持っておられるものすべては、今やわたしたちのものです(Iコリント3:21―23)。わたしたちは兄のように、約束をむなしく所有するだけで、その享受の中へと入り込まない者となるべきではありません。彼はその愚かさと不信仰のゆえに、求めることもせず、活用することもしませんでした。このため、彼は何も持ちませんでした。もし彼が息子としての自分の権利を行使することを求めていたなら、単に一匹の子やぎだけでなく、無数の子やぎを持っていたことでしょう!

今やわたしたちが必要とすることは、神がわたしたちに約束されたものを、信仰によって活用することにほかなりません。わたしたちは、神が主イエスにあってわたしたちのために備えられたものを、信仰によって「現金化」すべきです。遺言を相続する者にとって、相続財産を享受し、経験する前に、しなければならないことが二つあります。第一に、彼は相続財産があることを信じなければなりません。第二に、彼は立ち上がって、この相続財産を管理することに専心しなければなりません。もちろん、もし人が相続財産があることを信じなければ、立ち上がってそれを管理することはないでしょう。こういうわけで、まずわたしたちは、神が確かに主イエスをわたしたちの「知恵、すなわち、義と聖別と贖い」(Iコリント1:30)とされたことを、また主の達成されたことと勝利のすべてが、わたしたちの達成であり勝利であることを、認めなければなりません。もしわたしたちがこの信仰を持たなければ、いかなる霊的経験も決して望むことができないだけでなく、神に対し罪を犯し、彼の働きを疑っていることにもなるのです!第二に、この世の人たちは、自分の肉体の力によって相続財産を管理します。しかし、わたしたちが自分の霊的な相続財産を管理するためには、霊的な力、すなわち信仰を用いなければなりません。この霊的な相続財産はすでにわたしたちのものですから、わたしたちは信仰によってさらに一歩前進して、わたしたちの相続財産を主イエスにあって「現金化」し、活用し、管理しなければなりません。

「経験」―わたしたちの足の裏で踏む所の神の地を認識し、神がわたしたちに与えられた地を相続する

旧約の中にわたしたちはもう一つの事例を見ますが、それはわたしたちに事実、信仰、経験の間の関係を十分に示しています。それは、イスラエル人がカナンに入ることの歴史です。古代において、神はイスラエル人にカナンの地を約束されました。彼はこれをアブラハムに、イサクに、ヤコブに、さらにはエジプトを去った数十万の人々にも述べられました。神にとって、地はすでに与えられていました。神は、彼らのために戦うことと、彼らがすべての敵に打ち勝つことを約束されました。神がイスラエル人にカナンの地とすべての人々をすでに与えられたことは、一つの事実でした。その事実はそこにありましたが、彼らはまだその経験を持っていませんでした。 事実に関する限り、地はすでに彼らのものでしたが、経験においては、彼らはまだそれを一インチたりとも所有していませんでした。こういうわけで、彼らは「今すぐ上って行って、そこを占有」する必要がありました。なぜなら、彼らは「必ず勝」つことができたからです(民13:30)。しかしながら、彼らの不信仰のゆえに、神が彼らに地を与えられたという事実にもかかわらず、彼らはそれを経験において所有することができませんでした。一世代の後、神はヨシュアに言われました、「あなたがたが足の裏で踏むあらゆる所は、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えている」(ヨシュア1:3)。彼らは、神が彼らに与えられた地で、足の裏で踏む所はみな受け継ぐことになっていました。後に、彼らは上っていった時、その地を受け継ぎました。

これはわたしたちに、キリストが完成されたことを実体化する秘訣を示します。神はすでにわたしたちに、キリストが「何であられるか」、キリストが「持っておられるもの」、キリストが「成されたこと」を与えてくださいました。それらはすべて、すでにわたしたちのものです。今や、わたしたちがすべきことは、彼が何であられるか、彼が持っておられるもの、彼が成されたことを、経験することです。これらすべてを経験する方法は、カナンが良いことを認めること以外にありません。もしわたしたちが、わたしたちの足の裏で踏む所の神の地を隅から隅まで認識するなら、確かに神がわたしたちに与えられた地を相続していることに気がつくでしょう。神は与えられ、わたしたちは信じ、受け入れます。これが事実、信仰、経験です。

 

本記事はJGW日本福音書房出版のウオッチマン・ニー著、「事実、信仰、経験」から抜粋されています。さらに読みたい方はこちらからご購入できます。