「地方合一の立場に立つ教会」、「地方教会」について

使徒14:23 そして、彼は召会ごとに彼らのために長老を任命し、断食して祈り、彼らが信じていた主に彼らをゆだねた。

テトス1:5 わたしがあなたをクレテに残してきたのは、あなたが残っている事柄を整理し、またあなたに指示したとおり、都市ごとに長老たちを任命するためです.

テトス第1章5節の「都市ごとに」という言葉は、使徒行伝第14章23節にある「召会ごとに」という言葉と比較すると、都市が地方召会の管轄区域であるだけでなく、一つの都市には一つの召会しかあり得ないことをも示しています。地方召会の長老職の範囲は、その召会が存在する都市全体であるべきです。一つの都市における唯一の長老団は、キリストのからだの唯一の一が損なわれることのないよう保護します。一つの都市には、一つの長老団を持つ一つの召会だけがあるべきです。このような実行は、新約聖書の明白な実例によって説明されており、疑いの余地はありません(使徒8:113:1ローマ16:1Ⅰコリント1:2啓1:11)。これは、地方召会で正しい秩序を維持するために絶対に必要な条件です。ですから秩序を正すために、使徒がテトスに行なうよう命じた最初の事は、都市ごとに長老たちを任命することでした。(新約聖書回復訳テトス1:5Fノート1

聖書における教会は地方的です。新約全体に一つの例外も見いだすことができません。教会はすべて地方的です。エルサレムに在る教会アンテオケに在る教会コリントに在る教会などです。聖書にあるすべての例は地方的です。例えば、啓示録のエペソに在る教会スミルナに在る教会ペルガモに在る教会テアテラに在る教会サルデスに在る教会ヒラデルヒヤに在る教会ラオデキヤに在る教会はすべて地方的です。神はそれぞれの地方に一つの教会を定められました。地方と教会とは互いに等しいのです。地上の国は諸都市に分かれており、今日、地上で神の教会も諸都市に分かれています。この世には上海という地方があり、それゆえ神の御前には上海に在る教会があります。この世には南京という地方があり、それゆえ神の御前には南京に在る教会があるのです。この世には西安、蘭州という地方があります。それゆえ、神の御前には西安に在る教会、蘭州に在る教会があります。一つの地方になる大きさの場所がありさえすれば、その地方には一つの教会があるべきです。わたしたちのいる場所が地方ほどの大きさを持っていなければ、わたしたちは教会ではあり得ません。蘭州は神の目に十分大きく、地方となります。ですから、蘭州に在る教会があり得るのです。神の御前にこの問題はとてもはっきりしています。(ウオッチマン・ニー「ウオッチマン・ニー全集第56巻「開かれた門」誌 第24号」pp152-153)

「地方合一の立場に立つ教会」または「地方教会」は一つの独立した宗派を意味する固有名詞ではありません。わたしたちが保持し、あがめるただ一つの名は主イエス・キリストの御名だけです(ピリピ2:10使徒4:12)。また、この主イエス・キリストの御名でさえ、わたしたちが分派を作るために用いることは聖書では否定的な事柄として扱われています(Iコリント1:12Fノート2)。妻である教会が分離、独立し、固有の名称を主張することは、夫である主イエス・キリストを屈辱することです(エペソ5:23-33)。

「地方合一の立場に立つ教会」、「地方教会」と言う用語は固有の団体名称ではありません。それは教会の地方的性質とキリストのからだの表現を持つ実行を示しています。すなわち、キリストのからだである宇宙的な唯一の教会(the Church)を一つの地方に在って表現する教会(the church)が「地方教会」の実行です。「地方合一の立場に立つ教会」、「地方教会」という語を大文字(the Church)で印刷することは重大な誤りです。なぜなら、「the Church」を用いることで、「地方合一の立場にある教会」、「地方教会」が固有の名称であるかのように見え、また、一つの独立し、完結した教会であるような印象を与えるからです。月はどの地方で見られようとも一つの月であるように、教会もどの地方で表現され、建造されようともただ一つの教会「the Church」です。「地方合一の立場にある教会」、「地方教会」は多くの地方において、一つの教会「the Church」を生活し、表現するための実行上の手段です。